極限状態でのカニバリズム。「ミニョネット号事件」とは?|ブログインデックス

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「ミニョネット号事件」とは、1884年5月19日にイギリスから出帆したミニョネット号というヨットが、同年の1884年7月5日に喜望峰の近くで難破し、その後の24日間にも及ぶ漂流中に船長のトム・ダッドリーが給仕のリチャード・パーカーという少年を殺害し、他の乗組員とともにその肉を食べたという事件のことである。その後、このダッドリー船長と乗組員は殺人罪でイギリス当局によって起訴されることになり、その裁判では極限状態におけるカニバリズムと殺人行為への緊急避難の適用に焦点が当てられ、多くの人々の注目を集めることになった。

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この事件の詳細

1884年5月19日、イギリス南部の都市サウサンプトンからオーストラリア南東部の都市シドニーへと向けて、「ミニョネット号」という一艇のヨットが出帆した。このヨットは、オーストラリア在住の実業家であるジョン・ヘンリー・ウォントという人物が、故郷のイギリスへと往復するために購入・所有していたものであり、今回が初めての航海だったという。

その乗組員は船長のトム・ダッドリー、船員のエドウィン・スティーヴンスとエドモンド・ブルックス、そして、まだ17歳の少年である給仕のリチャード・パーカーからなる計4名だった。

同年の1884年7月5日、南アフリカ共和国の西ケープ州ケープタウンにある、喜望峰から約2,600kmほど離れた公海上において、ミニョネット号は突如として発生した激しい嵐に遭って難破し、乗組員は救命ボートに乗って脱出した。しかし、この救命ボートには食料はカブの缶詰が2個しか積まれておらず、この真夏の中、飲み水については雨水に頼るしかない状況となった。

ここから後のミニョネット号の乗組員による漂流中の行動については、乗組員が記録を取っていなかったため、その正確な日付は確認されておらず、あくまでイギリス当局の推測によるものである。

漂流開始から4日目の1884年7月9日、スティーヴンスとブルックスが約1.4kgほどのウミガメを捕まえ、その肉と骨を食べたが、漂流開始から11日目の1884年7月16日には全ての食料が底をついてしまった。この時、ダッドリー船長は「くじ引きによって一人の犠牲者を選び出し、他の乗組員がその選ばれた者の肉を食べるしか、我々に生き残る道はないのではないか」と提案したが、その議論の結果では中止となっている。

漂流開始から18日目の1884年7月23日、パーカーが喉の渇きに耐え切れなくなり、大量の海水を飲んだために昏睡状態へと陥った。ダッドリー船長はスティーヴンスとブルックスに対し、「恐らく、パーカーはもう助からないだろう。我々だけでも生き延びるために、彼を食べるべきなのではないか」と提案を行った。スティーヴンスは渋々ながらその提案に同意したものの、ブルックスは最後まで反対し続けていたという。

しかし、ダッドリー船長は祈りを捧げた後、パーカーの喉元をナイフで掻っ切って彼を殺害した。その後、最後まで反対していたブルックスを含む、乗組員の全員がパーカーの血を飲み、その肉を食べたという。

漂流開始から24日目の1884年7月29日、ミニョネット号の乗組員はドイツの貨物船であるモンテスマ号によって発見・救助された。

この事件後に行われた裁判

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ミニョネット号の乗組員はイギリスへと送還され、その後、イギリス当局による取り調べの中で乗組員の全員が給仕のパーカーの殺害について供述したため、ブルックスを除く、ダッドリー船長とスティーヴンスは殺人罪で起訴されることになった。

ブルックスが不起訴となった理由としては、パーカーの殺害について最後まで反対し続けたためである。またミニョネット号の乗組員がパーカーの殺害を隠蔽することは可能だったが、パーカーへの罪悪感から全てを話し始めたという。

ダッドリーとスティーヴンスの弁護を引き受けることになった弁護士のアーサー・J・H・コリンズは、哲学上の問題「カルネアデスの板」を引き合いに出し、「この二人は生き残るため、止むを得ずにパーカーの殺害に至ったのであり、状況的に見て一人を犠牲にしなければ全員が死んでいたのは明らかである。この殺害行為は極限状態における唯一の選択肢であり、この事件には緊急避難が適用されるべきなのではないか」という主張を行った。

緊急避難とは、「自らの生命に関わるような危機的状況において、止むを得ずに他者の権利を侵害する行為については、その法的責任が一部免除される」という法律上の考えであり、現在では日本を含め、多くの国々において採用されているものである。

この当時のイギリス国内では、緊急避難の考えについて多くの議論が行われている最中だった。そのため、裁判の陪審員は緊急避難の適用については判断できないという評決を下した。その結果、高等法院が判断することになり、高等法院が法律論よりも倫理的な判断を優先したため、ダッドリーとスティーヴンスには謀殺罪として死刑が宣告されることになった。

しかし、イギリス国内の人々から「二人を無罪にするべきなのではないか」という意見が多く挙げられたため、その後、当時の国家元首であるヴィクトリア女王によって禁固6ヶ月に減刑されている。

エドガー・アラン・ポーによる予言

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アメリカ合衆国を代表する推理小説家であるエドガー・アラン・ポーの冒険小説「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」の内容の一部が、この事件に酷似していることが判明している。

この小説は、ミニョネット号事件発生の約50年前にあたる1837年に発表されたポーの唯一の長篇小説であり、このことは「エドガー・アラン・ポーによる予言」として一部の人々の間では話題となった。

その内容とは下記のようなものである。

4人の男たちが、海で遭難する。

太陽が照りつける中、男たちは小船で漂流したまま何日も経過していき、ついには食料が底をついてしまう。男たちは悩んだ結果、くじ引きを行って一人を選び出して殺し、その肉を食べることにした。

くじ引きの結果、不運にも選ばれて殺されたのは、まだ少年のような若い船員だった。

その船員の名前は、「リチャード・パーカー」といった。

このような現実と創作物との偶然の一致は「シンクロニシティ」とも呼ばれており、現在までにいくつか見つかっているが、これはその代表的な例として挙げられることが多い。

関連動画

管理人から一言

「地獄絵図」とは、このような状況のことを言うんですね…。

この事件の詳細

1884年5月19日、イギリス南部の都市サウサンプトンからオーストラリア南東部の都市シドニーへと向けて、「ミニョネット号」という一艇のヨットが出帆した。このヨットは、オーストラリア在住の実業家であるジョン・ヘンリー・ウォントという人物が、故郷のイギリスへと往復するために購入・所有していたものであり、今回が初めての航海だったという。

その乗組員は船長のトム・ダッドリー、船員のエドウィン・スティーヴンスとエドモンド・ブルックス、そして、まだ17歳の少年である給仕のリチャード・パーカーからなる計4名だった。

同年の1884年7月5日、南アフリカ共和国の西ケープ州ケープタウンにある、喜望峰から約2,600kmほど離れた公海上において、ミニョネット号は突如として発生した激しい嵐に遭って難破し、乗組員は救命ボートに乗って脱出した。しかし、この救命ボートには食料はカブの缶詰が2個しか積まれておらず、この真夏の中、飲み水については雨水に頼るしかない状況となった。

ここから後のミニョネット号の乗組員による漂流中の行動については、乗組員が記録を取っていなかったため、その正確な日付は確認されておらず、あくまでイギリス当局の推測によるものである。

漂流開始から4日目の1884年7月9日、スティーヴンスとブルックスが約1.4kgほどのウミガメを捕まえ、その肉と骨を食べたが、漂流開始から11日目の1884年7月16日には全ての食料が底をついてしまった。この時、ダッドリー船長は「くじ引きによって一人の犠牲者を選び出し、他の乗組員がその選ばれた者の肉を食べるしか、我々に生き残る道はないのではないか」と提案したが、その議論の結果では中止となっている。

漂流開始から18日目の1884年7月23日、パーカーが喉の渇きに耐え切れなくなり、大量の海水を飲んだために昏睡状態へと陥った。ダッドリー船長はスティーヴンスとブルックスに対し、「恐らく、パーカーはもう助からないだろう。我々だけでも生き延びるために、彼を食べるべきなのではないか」と提案を行った。スティーヴンスは渋々ながらその提案に同意したものの、ブルックスは最後まで反対し続けていたという。

しかし、ダッドリー船長は祈りを捧げた後、パーカーの喉元をナイフで掻っ切って彼を殺害した。その後、最後まで反対していたブルックスを含む、乗組員の全員がパーカーの血を飲み、その肉を食べたという。

漂流開始から24日目の1884年7月29日、ミニョネット号の乗組員はドイツの貨物船であるモンテスマ号によって発見・救助された。

この事件後に行われた裁判

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ミニョネット号の乗組員はイギリスへと送還され、その後、イギリス当局による取り調べの中で乗組員の全員が給仕のパーカーの殺害について供述したため、ブルックスを除く、ダッドリー船長とスティーヴンスは殺人罪で起訴されることになった。

ブルックスが不起訴となった理由としては、パーカーの殺害について最後まで反対し続けたためである。またミニョネット号の乗組員がパーカーの殺害を隠蔽することは可能だったが、パーカーへの罪悪感から全てを話し始めたという。

ダッドリーとスティーヴンスの弁護を引き受けることになった弁護士のアーサー・J・H・コリンズは、哲学上の問題「カルネアデスの板」を引き合いに出し、「この二人は生き残るため、止むを得ずにパーカーの殺害に至ったのであり、状況的に見て一人を犠牲にしなければ全員が死んでいたのは明らかである。この殺害行為は極限状態における唯一の選択肢であり、この事件には緊急避難が適用されるべきなのではないか」という主張を行った。

緊急避難とは、「自らの生命に関わるような危機的状況において、止むを得ずに他者の権利を侵害する行為については、その法的責任が一部免除される」という法律上の考えであり、現在では日本を含め、多くの国々において採用されているものである。

この当時のイギリス国内では、緊急避難の考えについて多くの議論が行われている最中だった。そのため、裁判の陪審員は緊急避難の適用については判断できないという評決を下した。その結果、高等法院が判断することになり、高等法院が法律論よりも倫理的な判断を優先したため、ダッドリーとスティーヴンスには謀殺罪として死刑が宣告されることになった。

しかし、イギリス国内の人々から「二人を無罪にするべきなのではないか」という意見が多く挙げられたため、その後、当時の国家元首であるヴィクトリア女王によって禁固6ヶ月に減刑されている。

エドガー・アラン・ポーによる予言

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アメリカ合衆国を代表する推理小説家であるエドガー・アラン・ポーの冒険小説「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」の内容の一部が、この事件に酷似していることが判明している。

この小説は、ミニョネット号事件発生の約50年前にあたる1837年に発表されたポーの唯一の長篇小説であり、このことは「エドガー・アラン・ポーによる予言」として一部の人々の間では話題となった。

その内容とは下記のようなものである。

4人の男たちが、海で遭難する。

太陽が照りつける中、男たちは小船で漂流したまま何日も経過していき、ついには食料が底をついてしまう。男たちは悩んだ結果、くじ引きを行って一人を選び出して殺し、その肉を食べることにした。

くじ引きの結果、不運にも選ばれて殺されたのは、まだ少年のような若い船員だった。

その船員の名前は、「リチャード・パーカー」といった。

このような現実と創作物との偶然の一致は「シンクロニシティ」とも呼ばれており、現在までにいくつか見つかっているが、これはその代表的な例として挙げられることが多い。

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管理人から一言

「地獄絵図」とは、このような状況のことを言うんですね…。

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