「エレファント・マン」と呼ばれた男。ジョゼフ・メリック。|ブログインデックス

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1862年8月5日、イングランドのレスターシャー州にある都市レスターにて、一人の男の子が生まれた。その男の子は、後に「ジョゼフ・ケアリー・メリック」と名付けられることになる。メリックの身体は、生まれた頃は特に何の異常も認められず、至って健康的な状態だったという。しかし、生後21ヶ月頃から次第に原因不明の骨格の変形と皮膚の異常なまでの増殖が始まり、その症状によって日常生活に支障をきたし、1884年の22歳の時には見世物小屋に入って、世界各地で興行を行いながら生活を続けるようになる。今回は、そんな「エレファント・マン」と呼ばれた男、ジョゼフ・メリックを紹介する。

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ジョゼフ・メリックの誕生

1862年8月5日、ジョゼフ・ケアリー・メリックはイングランドのレスターシャー州にある都市レスターにて、父のジョゼフ・ロックリー・メリックと母のメアリー・ジェーン・メリックの間に生まれた。当時、父のジョゼフ・ロックリーは倉庫の作業員として働いており、母のメアリー・ジェーンはレスター近郊にある大きな屋敷でメイドとして働きながら、同時に教会学校の教師を務めていた。

メリックの身体は、生まれた頃は特に何の異常も認められず、至って健康的な状態だったという。しかし、生後21ヶ月頃に口元に硬い腫れ物ができると、その腫れ物は数ヶ月の間に右側の頬全体へと腫瘍となって広がっていった。また口内の肉塊が唇を裏返すように外へと飛び出し、額には変形した骨格と思われる瘤のようなものが現れた。同時に右腕と両足の骨格が変形して皮膚の異常なまでの増殖が始まり、身体の大部分の皮膚が緩んでキメが粗くなっていった。

メリック一家は都市レスターのリー・ストリートという地区に暮らしていたが、そこは上下水道の設備が貧弱であり、毎年のように近隣の運河が氾濫していたため、汚水とゴミで溢れかえることが多く、劣悪な環境だったという。1864年には次男のジョン・トーマス、1866年には三男のウィリアム・アーサー、1867年には長女のマリアン・イライザが誕生している。しかし、次男のジョン・トーマスは生後三ヶ月の時に天然痘のため亡くなっており、マリアン・イライザは生まれつき身体に障害を持っていた。また三男のウィリアム・アーサーが生まれた頃、メリックは転倒して腰の左側を痛め、同時に関節炎を発症しており、それ以降は歩行が困難な状態になっている。

1870年、三男のウィリアム・アーサーが猩紅熱のため亡くなった。母のメアリー・ジェーンは悲しみに暮れつつも、同年に自宅で開業した衣料品店の切り盛りに精を出していた。しかし、1873年のメリックが11歳の時、母のメアリー・ジェーンは過労によるものと見られる気管支肺炎を発症し、同年の1873年5月には36歳の若さで死去している。父のジョゼフ・ロックリーは自宅を売り払い、メリック一家は下宿生活を始めた。しかし、翌年の1874年12月には父のジョゼフ・ロックリーは家主のエマ・ウッド・アンティルという子持ちの女性と再婚し、メリック一家は再びかつての自宅へと戻って、衣料品店を経営しながら生活をすることとなった。

レスター・ユニオン救貧院への入所

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この頃、12歳で公立学校を卒業したメリックは、地元の葉巻きたばこの製造を行っている会社へと就職した。しかし、その二年後の1876年には右腕の変形が深刻な状態へと悪化したため、止むを得ずに退職している。その後、父のジョゼフ・ロックリーの支援を受けて、メリックは行商人の免許を取得し、父が経営している衣料品店の商品を街で売り歩いたものの、その容姿が災いして営業は困難を極めた。やがて、継母のエマ・ウッドとの不仲が理由でメリックは家出し、以前からメリックに対して好意的だった叔父のチャールズ・バーナバス・メリックのもとで一緒に暮らし始めた。

しかし、すでに骨格の変形は激しく進んでいたため、メリックが街で商品を売り歩くと周囲の人々がパニック状態に陥るような状況となっており、そのことが原因でメリックは行商人の免許を剥奪されることになる。1879年12月、17歳のメリックは都市レスターの救貧法委員会のもとを訪れ、労働不能を理由に救済の申し立てを行い、それが受理されたことにより、メリックはレスター・ユニオン救貧院へと入所することになった。

当時、このレスター・ユニオン救貧院には身寄りのない老人や孤児、また身体障害や知的障害、精神障害などを抱える約900人ほどの人々が収容されていた。ここでは入所者は年齢・性別・健康状態などによっていくつかのグループに分けられており、メリックは身体障害を抱える人々のグループの中で生活をすることになった。入所者は石材の加工や農作業、薪割りなどの一定の仕事を行うことにより、必要最低限の生活が保障されるものの、その生活には様々な制限が設けられており、また日常的に結膜炎が流行するなど、その衛生環境は劣悪なものだったという。1882年、20歳のメリックはレスター施療院にて、上あごにできた象の鼻のような形をした約20センチほどの肉塊の切除手術を受けている。

見世物小屋入りと各地での興行

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1884年、22歳のメリックは見世物小屋の興行主であるサム・トーという人物の存在を知り、自らの境遇を手紙に書いて送っている。その後、メリックとトーは面会することになり、メリックはトーの見世物小屋へと入って各地で興行を行うことを決意した。そして、同年の1884年8月、メリックはレスター・ユニオン救貧院を退所している。

トーは実業家のサム・ローパーとJ・エリス、興行主のトム・ノーマンとジョージ・ヒッチコックの4人を集めてメリックのマネジメントチームを結成した。この4人の手によって、メリックには「半人半象(Half a man & Half an Elephant)」、「エレファント・マン(The Elephant Man)」というキャッチフレーズが考案された。また興行で各地を訪れた際、その会場では「ジョゼフ・ケアリー・メリックの自伝」という文章が掲載されたパンフレットが販売されていた。そのパンフレットには、メリックの生い立ちとして「メリックの母は、妊娠中の時にヨーロッパの五月祭で偶然訪れた移動動物園を見物しに向かい、そこで行進してきた象の足元に誤って転倒し、強い恐怖を味わったという経験があり、そのことがメリックの奇怪な容姿の原因となっている」という創作された逸話が掲載されていた。

同年の1884年11月、イギリスの首都ロンドンにあるホワイトチャペルにて一行が見世物小屋の興行を行っていた際、ロンドン病院の外科医であるフレデリック・トレヴェスは、そこで初めてメリックの存在を知り、自らメリックの診察を行っている。翌月の1884年12月、トレヴェスはロンドン病理学会にてメリックの症例を報告しており、翌年の1885年3月には、同じくロンドン病理学会にて何枚もの写真を用いてメリックの症例をテーマとした研究発表を行っている。この頃、メリックの骨格の変形と皮膚の増殖については皮膚弛緩症、あるいは象皮病の一種によるものだと診断されていた。

ロンドン病院への収容

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やがて、イギリス国内において見世物小屋は公序良俗に反するものとして排除され始めたため、メリックのマネジメントチームはメリックの興行権をオーストリア人の興行主へと売却した。これに伴い、メリックはイギリスの首都ロンドンを離れ、ヨーロッパの各地を興行して周る生活を送ることになった。しかし、オーストリア人の興行主はメリックの商品価値に早々と見切りをつけ、1886年のメリックが26歳の時にメリックの全財産と引き換えにイギリスの首都ロンドン行きの切符を手渡し、ベルギーの首都ブリュッセルにてメリックとは別れている。再びイギリスの首都ロンドンへと帰ってきたメリックは、トレヴェスの名刺を手がかりにしてトレヴェスへと保護を要請し、そのままロンドン病院へと収容されることになった。

同年の1886年12月4日、タイムズ紙にてロンドン病院理事長のフランシス・カー・ゴムによる、メリックへの寄付金を募る趣旨の投稿が掲載された。この投稿に対して、イギリス国内からは膨大な量の手紙と寄付金が寄せられたという。この寄付金により、ロンドン病院の中庭に面した二つの地下室は、メリックが生活しやすいように大掛かりな改装が行われている。この時、トレヴェスの方針により、どちらの部屋にも鏡が置かれることは決してなかったという。

ロンドン病院への収容当初、メリックは自分に近づく者に対して苛立ったり、看護師が差し伸べる手にも怯えるような状態だったという。しかし、周囲の人々がメリックの変形した口元のために聞き取り難くなっていた言葉に徐々に慣れ、様々なことを話し合ううちに次第にメリックの態度は穏やかなものへと変化していった。またトレヴェスは毎日少なくても一回はメリックの部屋を訪れ、日曜日の午前中には数時間もの長い時間をメリックと一緒に過ごしていた。この時、メリックはあまり昔のことを話すことはなかったが、母のメアリー・ジェーンに対しては「美しい人だった」と話しており、見世物小屋に出ていた頃のことは全く話さなかったものの、決して興行主のことを悪く言うことはなかったという。

トレヴェスは初めてメリックを診察した際、メリックは何らかの知的障害を抱えているものと考えていた。しかし、それは顔の皮膚の増殖が激しいために表情が読み取り難いことと、口元の変形が進んでいたために言葉が不明瞭だっただけであり、実際のメリックはとても知性的な人物だったという。またメリックは熱心な読書家であり、様々な新聞や雑誌、純文学や大衆小説、聖書など手に入るものは片っ端から読んでいたとされている。

カー・ゴムの投稿がタイムズ紙にて掲載された後では、メリックの存在は多くの上流階級の人々の関心を集めることになり、ロンドン病院にはメリックへの面会希望者が相次いで訪れてくることとなった。メリックのもとを訪れる人々は、高価な絵画や自らのサインがしてある写真などを持参したが、メリックは読み物を贈られることを一番喜んだという。女優のマッジ・ケンドールは俳優の夫を通じてメリックの存在を知り、当時は発明されたばかりの蓄音機をメリックへと贈ったり、メリックの希望に応じてカゴ細工の教師をメリックのもとへと派遣するなど、二人の交流は長く続いていた。 1887年5月には、当時のイギリス皇太子であるエドワード7世とイギリス王妃であるアレクサンドラ・オブ・デンマークが、メリックの部屋を訪問している。

ジョゼフ・メリックの死

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1890年4月11日、身体の衰えが進んでいたメリックは、昼頃になっても目覚めないということが日常的になっていた。メリックの係りをしていた看護師のアイアランドが、当日の午前中に身の回りを世話をしているが、特に変わったことはなかったという。同じく当日の午後1時頃、メイドが昼食をメリックのもとへと運び、好きな時間に食べられるようにと準備をしている。その後の午後3時頃、研修医のホッジスがベッドで仰向けに寝たままの姿勢で亡くなっているメリックを発見した。ベッドの側に置かれている昼食には一切手がつけられておらず、全て残されたままであり、ホッジスは先輩のアッシュの立会いを求め、この二人によってメリックの死亡確認がされた。享年27歳だった。

その死因は頸椎の脱臼、あるいは窒息による自然死と見られている。翌日の1890年4月12日、タイムズ紙には「エレファント・マンの死」という見出しでメリックが亡くなったことを知らせる記事がカー・ゴムのメッセージとともに掲載された。その後、ロンドン病院にはイギリス国内はもちろん、世界各国からメリックの死を惜しむ声が数多く寄せられることとなった。

現在、メリックの骨格標本はイギリスの首都ロンドンにある大英博物館にて保存・管理されており、研究対象の一つとされている。また過去には皮膚などの病理標本も保存・管理されていたが、第二次世界大戦時に失われてしまったという。現在では、メリックの骨格の変形と皮膚の増殖については、遺伝子疾患の一つである「プロテウス症候群」だとする見方がもっとも有力視されている。しかし、このプロテウス症候群という遺伝子疾患は、現在までに世界各国で約200例ほどしか確認されておらず、未だに謎の多い難病の一つとされており、メリックはその中でも特に症状の重いケースだったものと考えられている。

現在までにメリックの生涯をテーマとした作品は多く制作されており、1979年にプレビュー公演された演劇「エレファント・マン」はトニー賞の最優秀演劇作品賞を受賞しており、翌年の1980年に公開された映画「エレファント・マン」はアカデミー賞の8部門にノミネートされている。

この機会に興味のある方は、メリックの生涯をテーマにした映画などをご覧になってみてはいかがだろうか。

関連動画

この動画は、2011年3月23日にアメリカ合衆国のディスカバリーチャンネル内にて、「蘇るエレファントマン」というタイトルで放送された、最新の3D技術を駆使してジョゼフ・メリックの姿を再現することを試みた際の映像である。この番組内では、その死因は巨大な頭部の重みにより、仰向けの姿勢で寝ている際に頸椎が脱臼し、そのことが原因で絶命したものと推測されている。

 

管理人から一言

今後の医学の進歩に期待したいです…。

ジョゼフ・メリックの誕生

1862年8月5日、ジョゼフ・ケアリー・メリックはイングランドのレスターシャー州にある都市レスターにて、父のジョゼフ・ロックリー・メリックと母のメアリー・ジェーン・メリックの間に生まれた。当時、父のジョゼフ・ロックリーは倉庫の作業員として働いており、母のメアリー・ジェーンはレスター近郊にある大きな屋敷でメイドとして働きながら、同時に教会学校の教師を務めていた。

メリックの身体は、生まれた頃は特に何の異常も認められず、至って健康的な状態だったという。しかし、生後21ヶ月頃に口元に硬い腫れ物ができると、その腫れ物は数ヶ月の間に右側の頬全体へと腫瘍となって広がっていった。また口内の肉塊が唇を裏返すように外へと飛び出し、額には変形した骨格と思われる瘤のようなものが現れた。同時に右腕と両足の骨格が変形して皮膚の異常なまでの増殖が始まり、身体の大部分の皮膚が緩んでキメが粗くなっていった。

メリック一家は都市レスターのリー・ストリートという地区に暮らしていたが、そこは上下水道の設備が貧弱であり、毎年のように近隣の運河が氾濫していたため、汚水とゴミで溢れかえることが多く、劣悪な環境だったという。1864年には次男のジョン・トーマス、1866年には三男のウィリアム・アーサー、1867年には長女のマリアン・イライザが誕生している。しかし、次男のジョン・トーマスは生後三ヶ月の時に天然痘のため亡くなっており、マリアン・イライザは生まれつき身体に障害を持っていた。また三男のウィリアム・アーサーが生まれた頃、メリックは転倒して腰の左側を痛め、同時に関節炎を発症しており、それ以降は歩行が困難な状態になっている。

1870年、三男のウィリアム・アーサーが猩紅熱のため亡くなった。母のメアリー・ジェーンは悲しみに暮れつつも、同年に自宅で開業した衣料品店の切り盛りに精を出していた。しかし、1873年のメリックが11歳の時、母のメアリー・ジェーンは過労によるものと見られる気管支肺炎を発症し、同年の1873年5月には36歳の若さで死去している。父のジョゼフ・ロックリーは自宅を売り払い、メリック一家は下宿生活を始めた。しかし、翌年の1874年12月には父のジョゼフ・ロックリーは家主のエマ・ウッド・アンティルという子持ちの女性と再婚し、メリック一家は再びかつての自宅へと戻って、衣料品店を経営しながら生活をすることとなった。

レスター・ユニオン救貧院への入所

「エレファント・マン」と呼ばれた男。ジョゼフ・メリック。|ブログインデックス|画像ID:16

この頃、12歳で公立学校を卒業したメリックは、地元の葉巻きたばこの製造を行っている会社へと就職した。しかし、その二年後の1876年には右腕の変形が深刻な状態へと悪化したため、止むを得ずに退職している。その後、父のジョゼフ・ロックリーの支援を受けて、メリックは行商人の免許を取得し、父が経営している衣料品店の商品を街で売り歩いたものの、その容姿が災いして営業は困難を極めた。やがて、継母のエマ・ウッドとの不仲が理由でメリックは家出し、以前からメリックに対して好意的だった叔父のチャールズ・バーナバス・メリックのもとで一緒に暮らし始めた。

しかし、すでに骨格の変形は激しく進んでいたため、メリックが街で商品を売り歩くと周囲の人々がパニック状態に陥るような状況となっており、そのことが原因でメリックは行商人の免許を剥奪されることになる。1879年12月、17歳のメリックは都市レスターの救貧法委員会のもとを訪れ、労働不能を理由に救済の申し立てを行い、それが受理されたことにより、メリックはレスター・ユニオン救貧院へと入所することになった。

当時、このレスター・ユニオン救貧院には身寄りのない老人や孤児、また身体障害や知的障害、精神障害などを抱える約900人ほどの人々が収容されていた。ここでは入所者は年齢・性別・健康状態などによっていくつかのグループに分けられており、メリックは身体障害を抱える人々のグループの中で生活をすることになった。入所者は石材の加工や農作業、薪割りなどの一定の仕事を行うことにより、必要最低限の生活が保障されるものの、その生活には様々な制限が設けられており、また日常的に結膜炎が流行するなど、その衛生環境は劣悪なものだったという。1882年、20歳のメリックはレスター施療院にて、上あごにできた象の鼻のような形をした約20センチほどの肉塊の切除手術を受けている。

見世物小屋入りと各地での興行

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1884年、22歳のメリックは見世物小屋の興行主であるサム・トーという人物の存在を知り、自らの境遇を手紙に書いて送っている。その後、メリックとトーは面会することになり、メリックはトーの見世物小屋へと入って各地で興行を行うことを決意した。そして、同年の1884年8月、メリックはレスター・ユニオン救貧院を退所している。

トーは実業家のサム・ローパーとJ・エリス、興行主のトム・ノーマンとジョージ・ヒッチコックの4人を集めてメリックのマネジメントチームを結成した。この4人の手によって、メリックには「半人半象(Half a man & Half an Elephant)」、「エレファント・マン(The Elephant Man)」というキャッチフレーズが考案された。また興行で各地を訪れた際、その会場では「ジョゼフ・ケアリー・メリックの自伝」という文章が掲載されたパンフレットが販売されていた。そのパンフレットには、メリックの生い立ちとして「メリックの母は、妊娠中の時にヨーロッパの五月祭で偶然訪れた移動動物園を見物しに向かい、そこで行進してきた象の足元に誤って転倒し、強い恐怖を味わったという経験があり、そのことがメリックの奇怪な容姿の原因となっている」という創作された逸話が掲載されていた。

同年の1884年11月、イギリスの首都ロンドンにあるホワイトチャペルにて一行が見世物小屋の興行を行っていた際、ロンドン病院の外科医であるフレデリック・トレヴェスは、そこで初めてメリックの存在を知り、自らメリックの診察を行っている。翌月の1884年12月、トレヴェスはロンドン病理学会にてメリックの症例を報告しており、翌年の1885年3月には、同じくロンドン病理学会にて何枚もの写真を用いてメリックの症例をテーマとした研究発表を行っている。この頃、メリックの骨格の変形と皮膚の増殖については皮膚弛緩症、あるいは象皮病の一種によるものだと診断されていた。

ロンドン病院への収容

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やがて、イギリス国内において見世物小屋は公序良俗に反するものとして排除され始めたため、メリックのマネジメントチームはメリックの興行権をオーストリア人の興行主へと売却した。これに伴い、メリックはイギリスの首都ロンドンを離れ、ヨーロッパの各地を興行して周る生活を送ることになった。しかし、オーストリア人の興行主はメリックの商品価値に早々と見切りをつけ、1886年のメリックが26歳の時にメリックの全財産と引き換えにイギリスの首都ロンドン行きの切符を手渡し、ベルギーの首都ブリュッセルにてメリックとは別れている。再びイギリスの首都ロンドンへと帰ってきたメリックは、トレヴェスの名刺を手がかりにしてトレヴェスへと保護を要請し、そのままロンドン病院へと収容されることになった。

同年の1886年12月4日、タイムズ紙にてロンドン病院理事長のフランシス・カー・ゴムによる、メリックへの寄付金を募る趣旨の投稿が掲載された。この投稿に対して、イギリス国内からは膨大な量の手紙と寄付金が寄せられたという。この寄付金により、ロンドン病院の中庭に面した二つの地下室は、メリックが生活しやすいように大掛かりな改装が行われている。この時、トレヴェスの方針により、どちらの部屋にも鏡が置かれることは決してなかったという。

ロンドン病院への収容当初、メリックは自分に近づく者に対して苛立ったり、看護師が差し伸べる手にも怯えるような状態だったという。しかし、周囲の人々がメリックの変形した口元のために聞き取り難くなっていた言葉に徐々に慣れ、様々なことを話し合ううちに次第にメリックの態度は穏やかなものへと変化していった。またトレヴェスは毎日少なくても一回はメリックの部屋を訪れ、日曜日の午前中には数時間もの長い時間をメリックと一緒に過ごしていた。この時、メリックはあまり昔のことを話すことはなかったが、母のメアリー・ジェーンに対しては「美しい人だった」と話しており、見世物小屋に出ていた頃のことは全く話さなかったものの、決して興行主のことを悪く言うことはなかったという。

トレヴェスは初めてメリックを診察した際、メリックは何らかの知的障害を抱えているものと考えていた。しかし、それは顔の皮膚の増殖が激しいために表情が読み取り難いことと、口元の変形が進んでいたために言葉が不明瞭だっただけであり、実際のメリックはとても知性的な人物だったという。またメリックは熱心な読書家であり、様々な新聞や雑誌、純文学や大衆小説、聖書など手に入るものは片っ端から読んでいたとされている。

カー・ゴムの投稿がタイムズ紙にて掲載された後では、メリックの存在は多くの上流階級の人々の関心を集めることになり、ロンドン病院にはメリックへの面会希望者が相次いで訪れてくることとなった。メリックのもとを訪れる人々は、高価な絵画や自らのサインがしてある写真などを持参したが、メリックは読み物を贈られることを一番喜んだという。女優のマッジ・ケンドールは俳優の夫を通じてメリックの存在を知り、当時は発明されたばかりの蓄音機をメリックへと贈ったり、メリックの希望に応じてカゴ細工の教師をメリックのもとへと派遣するなど、二人の交流は長く続いていた。 1887年5月には、当時のイギリス皇太子であるエドワード7世とイギリス王妃であるアレクサンドラ・オブ・デンマークが、メリックの部屋を訪問している。

ジョゼフ・メリックの死

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1890年4月11日、身体の衰えが進んでいたメリックは、昼頃になっても目覚めないということが日常的になっていた。メリックの係りをしていた看護師のアイアランドが、当日の午前中に身の回りを世話をしているが、特に変わったことはなかったという。同じく当日の午後1時頃、メイドが昼食をメリックのもとへと運び、好きな時間に食べられるようにと準備をしている。その後の午後3時頃、研修医のホッジスがベッドで仰向けに寝たままの姿勢で亡くなっているメリックを発見した。ベッドの側に置かれている昼食には一切手がつけられておらず、全て残されたままであり、ホッジスは先輩のアッシュの立会いを求め、この二人によってメリックの死亡確認がされた。享年27歳だった。

その死因は頸椎の脱臼、あるいは窒息による自然死と見られている。翌日の1890年4月12日、タイムズ紙には「エレファント・マンの死」という見出しでメリックが亡くなったことを知らせる記事がカー・ゴムのメッセージとともに掲載された。その後、ロンドン病院にはイギリス国内はもちろん、世界各国からメリックの死を惜しむ声が数多く寄せられることとなった。

現在、メリックの骨格標本はイギリスの首都ロンドンにある大英博物館にて保存・管理されており、研究対象の一つとされている。また過去には皮膚などの病理標本も保存・管理されていたが、第二次世界大戦時に失われてしまったという。現在では、メリックの骨格の変形と皮膚の増殖については、遺伝子疾患の一つである「プロテウス症候群」だとする見方がもっとも有力視されている。しかし、このプロテウス症候群という遺伝子疾患は、現在までに世界各国で約200例ほどしか確認されておらず、未だに謎の多い難病の一つとされており、メリックはその中でも特に症状の重いケースだったものと考えられている。

現在までにメリックの生涯をテーマとした作品は多く制作されており、1979年にプレビュー公演された演劇「エレファント・マン」はトニー賞の最優秀演劇作品賞を受賞しており、翌年の1980年に公開された映画「エレファント・マン」はアカデミー賞の8部門にノミネートされている。

この機会に興味のある方は、メリックの生涯をテーマにした映画などをご覧になってみてはいかがだろうか。

関連動画

この動画は、2011年3月23日にアメリカ合衆国のディスカバリーチャンネル内にて、「蘇るエレファントマン」というタイトルで放送された、最新の3D技術を駆使してジョゼフ・メリックの姿を再現することを試みた際の映像である。この番組内では、その死因は巨大な頭部の重みにより、仰向けの姿勢で寝ている際に頸椎が脱臼し、そのことが原因で絶命したものと推測されている。

 

管理人から一言

今後の医学の進歩に期待したいです…。

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